校歌

 茨城県立土浦第一高等学校校歌(明治四十四年一月一日制定) 

 明治四十四年(一九一一)一月一日、四方拝の儀式が行われ、次いで選定校歌が発表された。前年七月、夏休みを前にして全校生徒に校歌作詞の宿題が出されており、応募作品の中から当時四年生の堀越晋氏(中十一回)の作品が入選した。最上級の五年生ではなく四年生の作品が選ばれたということで、全校生は驚きの念で迎えたといわれている。堀越氏は現在の石岡市井関出身。本校卒業後、東北帝国大学医学専門部に進学。卒業後、宇都宮の病院に勤務したが、大正六年(一九一七)、二十四歳で夭逝した。 

 堀越氏の詞を補筆し作曲を手がけたのが、尾崎楠馬教諭(明治四十年~四十四年在職)である。尾崎氏は高知県旧安芸郡赤野村出身。高知県尋常中学校、高知県師範学校、東京高等師範学校国語漢文部卒業後、本校に着任。国漢科主任、寄宿舎舎監、水上部顧問として土中生の人気を博し尊敬を集めた。東京高師在学中は端艇の選手として活躍。音楽にも堪能でオルガンを巧みに弾き、唱歌を好んで歌い、運動会では楽隊指揮も務めた。後に東京府青山師範学校、静岡県浜松師範学校を経て、静岡県立見付中学校(現・静岡県立磐田南高等学校)初代校長となる。 

 旧制中学校が校歌を制定するにあたっては、作曲という困難な壁があった。ゆえに多くの中学校では校歌の作成を外部の専門家に依頼する場合が多い。水戸中の校歌は当校教師が作詞を担い、茨城県師範学校音楽教師が作曲したものである。あるいは下妻中や龍ヶ崎中のように、旧制第一高等学校寮歌の曲を借用して校歌を歌う例もある。各校の校歌は、下妻中が第十二回紀念祭寮歌『嗚呼玉杯に花うけて』(明治三十五年)、龍ヶ崎中が第十一回紀念祭寮歌『アムール川の流血や』(明治三十四年)の曲に乗せて歌われている。これに対し、土浦中の校歌は制作過程がかつての本校、兄弟校、分校と全く異なる。歌詞は生徒の公募によるもので、国漢科主任でありながら音楽の素養を持つ青年教師の存在が、土中の、土中生と教官による、土中のための、自前の校歌誕生を可能にしたのである。 

 本校校歌は、一番で筑波山や霞ヶ浦の雄大な自然を俯瞰し、二番で眼前に移ろう郷土の美しい季節を描き、三番でこの素晴らしい風土に培われる若人の心意気に迫り、最後の四番で真鍋台の学び舎での青春と未来へのエールを誇らかに歌い上げる構成となっている。歌詞は七五調で統一され、曲は四分の二拍子であるため、簡潔で誰にでも歌いやすく、生徒によって生み出されたものだけに、高邁な哲学や処世訓は語らず、自然に対する畏敬の念と明治期の青年の心情が素直に表現されており、なおかつ伝統校としての風格を感じさせる校歌である。 

 先の大戦後、三番が姿を消した時代があった。非軍事化・民主化政策の推進により、軍国主義的教育を排除することが求められたためである。「東国男児の気を享けて 我に武勇の気魄あり」という句がこれに抵触する恐れがあり、しばらくの間、三番は歌われなくなった。校歌の主題をなす三番が復活し、本校で一番から四番まですべての歌詞が歌われるようになったのは、昭和四十年代からのことである。 

 旧本館玄関前左側の庭園に校歌碑(昭和三十八年建立)がある。進修同窓会結成二十五周年を記念して建てられたものである。制定当時の歌詞は現在のものと若干異同があり、現在の校歌はこの校歌碑に沿って歌い継がれている。三番「秀霊」が「秀麗」、「東国男児の気を享けて」が「血を享けて」、「気魂」が「気魄」。また、四番「亀城五百の健男児」は、生徒数の増加に伴い逐次改められ、現在は「亀城一千の健男児」である。 

 校歌解説出典

(茨城県立土浦第一高等学校進修同窓会旧本館活用委員会編『Acanthus』第十三号、二〇〇九年 

茨城県立土浦第一高等学校進修同窓会旧本館活用委員会編『Acanthus』第二十二号、二〇一〇年 

茨城県立土浦第一高等学校進修同窓会旧本館活用委員会編『Acanthus』第五十七号、二〇一三年 

茨城県立土浦第一高等学校創立百周年記念誌編纂委員会編『進修百年―土浦中学・土浦一高百年の歩み―』茨城県立土浦第一高等学校創立百周年記念事業実行委員会、一九九七年より) 

〈現代語訳〉 

一、肥沃な平野をはるかに見渡し、関東八カ国の重要な鎮(しず)め(重鎮)として、 

筑波山は、そそり立っている。空の青緑色そのままに、 

水を湛えてさざ波が打ち寄せている、霞ヶ浦の水は、いつまでも変わることがない。 

二、春三月頃の桜川は、その源流の桜の花の香りを載せて、 

川の流れに桜の花びら(花筏)を浮かべている。蘆の枯れ葉に秋の訪れを感じる頃の 

霞ヶ浦は、湖を渡る雁の鳴き声が冴えわたり、湖の中央に澄んだ月影を浮かべている。 

三、この山水の美しさを享受して、私にはゆったりとした優雅な心の広さが身に付いている。 

この計り知れない優れた精気を享受して、私には極めて誠実な心が身に付いている。 

東男(あずまおとこ)の血筋を引き継いで、私には強く勇ましい精神力が身に付いている。 

四、筑波山のようにますます高く、霞ヶ浦のようにますます広く、 

ああ、今こそ校旗(桜水の旗)を打ち立てて、我が校風を輝かせよ。 

亀城に学ぶ一千名の健男児よ! 亀城に学ぶ一千名の健男児よ! 

(横島義昭第三十三代学校長(平成二十七年~二十九年在職)御執筆) 

應援歌

第一應援歌(昭和二十五年制定) 

 昭和二十三年(一九四八)四月一日、新制土浦第一高等学校が発足した。戦後の混乱が収束に向かい、各種競技の対戦が盛んになり、翌昭和二十四年(一九四九)、生徒会長を務める廣瀬英雄氏(高三回・弁論部)を団長とする応援団が結成された。対外試合で相手校が校歌と共に応援歌を歌って試合を盛り上げる一方、当時の本校には校歌の他に応援歌がなく、「予科練の歌」として親しまれる地元ゆかりの『若鷲の歌』(作詞 西條八十、作曲 古関裕而、昭和十八年)が使用されていた。このような状況を背景に、応援歌の必要性が高まり始める。 

 ところが、当初は応援歌を作成するよりも校歌を作り変えるべきだという考えを唱える生徒もいた。その一人が根本基之氏(高三回)である。第一に、校訓が変更された以上、これに従って校歌も本質的に改めるべきであり、もはや時代に即応していない。第二に、校歌は筑波山、桜川、霞ヶ浦と風景を謳っているにすぎず、校風を盛り立てようという意気に欠けているという点を理由として挙げていた。廣瀬英雄氏がこの旨を当時の教頭長南俊雄先生に相談すると、「現在の校歌は伝統的なもので代々愛唱されてきたものだ。これを作り変えるのは容易いことではない。それならいっそこの際に応援団の歌でも作ったらどうか」と返答されたといわれている。長南俊雄先生のこの発議により、校歌改定は取り止められ、応援歌制定の気運が高まり、生徒に歌詞を公募した。 

 各学年、各教室に応援歌募集要項が貼り出され、渡邊文彌第十代学校長(昭和二十四年~三十年在職)、長南俊雄教頭(国語)、飯島徹男教諭(国語・昭和二十一年~三十二年在職)以下選考委員による審査の結果、約二十五篇の応募作品の中から根本基之氏の作品が選ばれた。根本氏は生徒会出版委員会初代委員長を務め、学園の民主主義と母校発展のため『土浦一高新聞』の編集発行に取り組まれた。また、文芸部長として機関紙『火山湖』の創刊に携わり、文芸部活動発表の場を築かれた。 

 応援歌の作曲は、当時真鍋坂下に疎開されていた日本コロムビア専属作曲家細田義勝氏に依頼。細田氏は流行歌『忘れちゃいやヨ』(作詞 最上洋、昭和十一年)、土浦の祭歌『霞浦おどり』、早稲田大学応援歌『勝てよ早稲田』(作詞 長田幹彦、昭和九年)も作曲されている。昭和二十五年(一九五〇)十月三十日、旧講堂にて応援歌の発表が盛大に行われ、全校生徒に披露された。競技の試練に燃ゆる亀城健児の闘志を表現した名応援歌である。 

 第一應援歌、第二應援歌、番傘音頭と共に、弊部創部当初から歌い継がれてきた『若鷲の歌』であるが、茨城県高等学校野球連盟からの要請により、昭和五十年代後半頃に使用を取り止めた。『若鷲の歌』は、海軍飛行予科練習生(予科練)募集を宣伝目的として制作された戦争映画『決戦の大空へ』(東宝映画)の主題歌である。 

 海軍飛行予科練習生とは、第一次世界大戦における航空機の戦訓に鑑み、飛行機操縦技術を年少時に修得させ、かつ将来航空機搭乗員の下級幹部たる特務士官に必要な素地を付与することを目的として、昭和四年(一九二九)十二月二十九日に定められた制度である。昭和五年(一九三〇)六月一日、横須賀海軍航空隊に第一期生が入隊して教育が開始された。当初は予科練習生と呼称されたが、昭和十一年(一九三六)、飛行予科練習生と改称された。 

 まもなく日中戦争の勃発によって、搭乗員の大量急速養成が図られ、昭和十二年(一九三七)、甲種飛行予科練習生制度が創設され、従来の飛行予科練習生は第八期生から乙種飛行予科練習生と改められた。その後、丙種飛行予科練習生制度、乙種(特)飛行予科練習生制度が発足。採用員数も逐年増加し、海軍航空機搭乗員の中核をなすに至った。しかし、本土決戦態勢の構築を進めるため、昭和二十年(一九四五)、飛行予科練習生教育は中止された。日中戦争開戦の時代に入隊した甲飛・乙飛出身者は、海軍航空隊の有力な搭乗員層であったがために、いずれの期も太平洋戦争において七〇%以上の戦死者を出している。戦死者の中には、特別攻撃隊として出撃した者も多い。 

 予科練の応募資格や教育期間は時期によって異なるが、乙飛の当初の応募資格は高等小学校卒業程度の学力を有する者で、満十五歳以上十七歳未満の者。教育期間は三年(のちに二年六ヶ月に短縮)であった。甲飛の当初の応募資格は中学校第四学年一学期修了程度の学力を有する者(のちに緩和)で、満十六歳以上二十歳未満の者。教育期間は一年二ヶ月(のちに一年に短縮)であった。つまり、現在の高校生と同じ年齢層が予科練に志願していたことになる。教育内容は、中学校課程に準ずる普通学と一般的軍事知識と技能の習得を目指す兵学であった。これらの基礎教育を修了後、飛行練習生教程に進み、各練習航空隊で実際に飛行機を操縦する飛行訓練を受けた。 

 横須賀海軍航空隊飛行予科練習部は、飛行予科練習生の増員等の理由から、昭和十四年(一九三九)三月一日、霞ヶ浦海軍航空隊(大正十一年茨城県稲敷郡阿見町に開隊)に移管。飛行予科練習部は翌昭和十五年(一九四〇)十一月十五日、土浦海軍航空隊として独立し、予科練教育専門の練習航空隊となった。 

 なお、『若鷲の歌』の作曲を担当された、日本コロムビア専属作曲家古関裕而氏は、当時の早稲田大学第六応援歌『紺碧の空』(作詞 住治男、昭和六年)の作曲者でもある。 

 第二應援歌(昭和三十九年制定) 

 昭和三十九年(一九六四)東京五輪開催の年、第二應援歌の歌詞を生徒に公募した結果、伊藤典子氏(高十七回)の作品が選ばれた。作曲は山田和生氏(高十七回・吹奏楽部)が担当し、同年の文化祭で旧講堂にて披露された。燃え上がるような熱気と一丸となって突き進むチームメイトの和が表現されており、スポーツをする人も応援する人も一つになれる、明るく生き生きとした気持ちあふれる応援歌である。伊藤典子氏は、野村ルナ氏(高十五回・ヨット部)の勧めで当時軟式野球部マネージャーを務められていた。 

 旧講堂は創立五十周年記念事業として戦時下の昭和十八年(一九四三)から建設が進められるも、一時学校工場 

に改築され、動力源設備のための土台石が残るなどしていた。講堂建設は物資不足の折、貨幣価値の変動も甚だしく、宗光杢太郎第七代学校長(昭和十一年~二十一年在職)をはじめ多くの人々の熱意と苦労によって進められ、当初の予算の約二倍以上を費やし、昭和二十二年(一九四七)に落成した。旧講堂は、修理を加えながら約半世紀にわたって生徒たちの活動の場を提供してきたが、創立百周年記念事業の一環である多目的学習館(進修学習館)・同窓会館兼アリーナ(進修記念館)建設のため、平成七年(一九九五)に解体され、現存しない。 

 土浦一高讃歌(平成七年制定) 

 平成九年(一九九七)四月二十二日、本校は創立百周年を迎えた。これを記念して制作されたのが土浦一高讃歌である。屋口正一氏(高一回)の寄附金をもとに、当時の進修同窓会会長幡谷祐一氏(中四十回)が作詞、作曲家池辺晋一郎氏(茨城県水戸市出身)が作曲を担当され、同年十一月一日に開催された創立百周年記念式典の場において発表された。母校から授けられた教えを噛み締める歌であり、進修同窓会定期総会や東進会(進修同窓会東京支部)総会において、應援指導部が指揮を執り、校歌・応援歌と共に斉唱されるのが恒例となっている。 

 番傘音頭 

 早稲田大学旧応援歌『ああ愉快なり』を基に、創部当初から使用されている応援歌である。『ああ愉快なり』は、幼年唱歌として発表された童謡『兎と亀』(作詞 石原和三郎、作曲 納所弁次郎、明治三十四年)を転用し、「ああ愉快なり 愉快なり」を繰り返す、勝利の歓びを簡明に表現した歌である。元来は帝国大学(現東京大学)・東京商科大学(現一橋大学)対校競漕大会(現在の東商戦)で用いられていたものを早稲田大学が拝借し、明治三十九年(一九〇六)以来中断状態の早慶戦が復活した大正十四年(一九二五)頃から歌われるようになったといわれている。本校の野球応援においては、大量の水しぶきを柄杓から浴びせられながら、番傘を差し番傘音頭を歌って狂喜乱舞するのが得点時の通例である。歌詞は「輜重輸卒が兵隊ならば 蝶々蜻蛉も鳥のうち 焼いた魚が泳ぎだし 絵に描くダルマにゃ手足出て 電信柱に花が咲く」という戯れ歌が原典と推測される。 

 輜は幌のついた車、衣類を載せる車、重は重い物を載せる荷車の意で、輜重は、行李・駄鞍とともに軍隊の荷の運搬具、転じて軍隊に附属する軍需品と運搬具の総称。これらの輸送補給を担当する兵科を輜重兵という。輜重兵隊は、戦役の全期にわたり戦闘部隊の後方に続行し、武器・弾薬・糧食・被服・諸材料等の軍需品一切を戦闘部隊に間断なく迅速確実に補給する機関である。輜重輸卒とは、平時に数ヶ月の短期教育を受け、戦時に輜重兵の監督下で輜重の運搬などに従事する兵卒である。身分は二等卒と同等であったが、一般に二等卒の下とみなされ、前出の戯れ歌のように軽侮されていた。だが、ここで指されている輜重輸卒は、日露戦争当時第二補充兵役から召集された武器を持たない補助輸卒であって、一般の輜重輸卒ではないともいわれている。 

 輜重輸卒制度は、西南戦争の教訓から明治十二年(一八七九)に創設された。西南戦争では征討軍六万人に対し軍夫十万人を雇い、その賃銀が征討費の半ばを占めたことから、補給輸送を専担する兵の必要性が高まり、輜重兵とは別に輜重輸卒を毎年一万五〇〇〇人徴集することが定められた。体格やや低き者も可とし、現役六ヶ月、予備役五年六ヶ月の兵役とした。日清戦争では輸送要員が不足し、十万人を超える軍夫を雇った。軍夫の賃金は一般兵の十倍を要したため、日露戦争では補助輸卒を用いて経費を節減し、約二十五万人の輜重輸卒が動員された。昭和六年(一九三一)、輜重輸卒は輜重兵特務兵と改称。万年二等兵であったが、昭和十二年(一九三七)、一等兵進級が可能になり、昭和十四年(一九三九)、輜重兵と改称。長年の差別的名称はなくなった。 

 應援歌解説出典

(茨城県立土浦第一高等学校進修同窓会会報編集委員会編『進修同窓会会報』第十八号、茨城県立土浦第一高等学校進修同窓会、一九七六年 

茨城県立土浦第一高等学校進修同窓会会報編集委員会編『進修同窓会会報』百周年記念号、茨城県立土浦第一高等学校進修同窓会、一九九七年 

茨城県立土浦第一高等学校創立百周年記念誌編纂委員会編『進修百年―土浦中学・土浦一高百年の歩み―』茨城県立土浦第一高等学校創立百周年記念事業実行委員会、一九九七年 

牛島芳『応援歌物語―早稲田の青春ここにあり―』敬文堂、一九七九年 

大濱徹也・小沢郁郎編『帝国陸海軍事典』改訂版、同成社、一九九五年 

小池猪一編著『図説総覧海軍史事典』末國正雄監修、国書刊行会、一九八五年 

秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』東京大学出版会、一九九一年 

原剛・安岡昭男編『日本陸海軍事典』新人物往来社、一九九七年 

原田政右衛門『大日本兵語辞典』増補改訂版、成武堂、一九二一年、国書刊行会、一九八〇年復製 

百瀬孝『事典昭和戦前期の日本―制度と実態―』伊藤隆監修、吉川弘文館、一九九〇